・辰巳用水末付近
・涌波公園の上部あたりの辰巳用水。遊歩道として整備されている。
辰巳用水焔硝坂付近-遊歩道として整備されている。
辰巳用水焔硝坂付近から涌波方面への分水路。
(辰巳用水錦町付近、ここで標高81.8メートル)
牛首と言われた場所で、ここから先は暗渠となって小立野台を兼六園に向かって走る。
出羽町にある旧奥村家の前を通る辰巳用水、何故こんなに水が少ないのか。旧家老の屋敷跡の土塀だから、風格、長さ、高さなど
他を圧するものがある。
・金沢市末町にある犀川浄水場を迂回するように進む辰巳用水である。この写真の左側は崖になっておりはるか下には犀川が流れており滔滔と流れる水音が聞こえる。
・この写真は犀川浄水場の横を流れる辰巳用水である。近所の方々はみんな知っているがこの右手中央部に見えるのが辰巳用水の兼六園専用の導水管である。ここから約6キロ兼六園までの道程を辰巳用水に沿う形で流れている。上の上の写真をみてもわかる通り旧奥村家屋敷の前の兼六園入口には水がなくても、下部写真の山崎山の兼六園取水口に滔滔と水が流れて来るのは専用導水管のせいである。このことを知っている金沢市民は余りいない。専用の導水管にはゴミが溜まらないように管理されている。
・灯篭の雪の下部に暗く写って見えるのが辰巳用水の兼六園取水口である。この一帯は山崎山といわれている。
上の写真の続きがこれだから、どうも水を補給しているのかもしれないと思ったがその通りで、兼六園専用の辰巳用水専用の導水管があることを後日知ることになる。
・兼六園内を流れる用水。手前に見えるのは戸室石で作られた雁行橋である。園内では最も庭園美が完成されてるところといわれている。
・よく観光ポスターに紹介されている兼六園の霞が池である。琵琶湖を模して作られているという。この水は辰巳用水である。
寛永11年(1634年)、伏せ越し(逆サイフォン)で兼六園から城内へ水を送った。最初は木管を使用していたが、藩政後期天保14年(1842年)
13代藩主斉泰は水圧に耐えることのできる石管に変えた。
・霞が池を流れ出た用水は階段状になって瓢池にたどり着く。
・霞が池を流れ出た水は翠滝となって流れ池を形ずくっている。瓢池と呼ばれる。
・兼六園の蓮池門口を出た用水は左折し、広坂へ向かって流れてゆく。用水幅は狭いが、激しく音をたてて流れている。
・旧国立病院前(旧家老奥村屋敷)前を通過した用水は兼六園には入らずに左折し護国神社前を通り、美術館に向かって流れてゆく。
・兼六園には入らずに左折し流れた用水は石川県立美術館横をせせらぎとなって流れてゆくが、これは最近になって作ったものである。
1983年(昭和58年)に引き込まれ「美術の小径」と呼ばれている。
・美術館横を通りすぎた用水は小立野の台地から本多町の公園へ向かって滝状の階段を音をたてて流れてゆく。
横には階段が作られ遊歩道として整備されている。この流れは西外惣構堀につながっている。
旧金沢大付属小中学校横を流れる用水、左にあるのは金沢21世紀美術館で用水路も拡幅され昔とは違い整備されていた。
写真上の用水は橋を横切るとこのように二方面に分かれる。この場所は金沢市役所裏にあたり西外惣構掘の遺構である。
近くに石柱が立っていてそのことに関し説明がされている。惣構掘を造ってから後に用水ができたのだから、その水を利用して
惣構堀に水を引き込んだということだろう。
宇都宮書店横の小公園前で辰巳用水は鞍月用水と合流する。
・金沢のメーンストリートの一つである広坂通りを流れる辰巳用水。
兼六園の蓮池門口を出た流れはこの写真の用水に繋がっている。旧県庁舎前の中央分離帯横を流れる。旧藩時代にはこの水路はなく、市役所庁舎前を流れている。
現在の流れは小立野から兼六園に入り、園内を通過し蓮池門通りを下り広坂通りを流れる分水である。かってはこれから先は右折し、旧制四高グラウンド横から尾山商店街前を通り、西町、近江町へと流れていた。現在は暗渠となっている。
・金沢はかって旧制高等学校の内でも、全国に八つしかない高等学府・ナンバースクールのある町だった。今は落ちぶれたとはいえこの栄光の歴史が金沢市民に複雑な陰を落としている。今も堂々たる煉瓦造りの校舎は上の写真の用水の前にある。
「夜の八時になってにわかに広坂通りが賑やかになった。ある人群れは公園のほうから、他の群は香林坊のほうから、どれも夜のなかで黒いマントなどを冠り、何か昂奮してしゃべりながら高等学校の門へ流れ込んでいった。片口安吉もそのなかにまじって門を入っていった。」
(中野重治「歌のわかれ」)
主人公片口安吉は中野重治の分身である。その後、中野は四高を卒業し東大へと進んでいく。
・この碑は旧制四高に学んだ井上靖の散文詩である。四高本館の左隣りの旧柔道場のあった近辺に建っている。柔道場は以外と狭く
あれで20畳敷き位だったろうか、こんな狭いところでよくやっていたなあという印象を受けた。
井上靖は高校生活の三年間は柔道に明け柔道に暮れた日々だったと述懐している。
流星という碑文には次のように記されている。
「高等学校の学生の頃、日本海の砂丘の上で、ひとりマントに身を包み、仰向けに横たわって、星の流れるのを見たことがある。
十一月の凍った星座から、一條の星光をひらめかし、忽焉と掻き消えたその星の所行ほど、強く私の青春の魂をゆり動かしたもの
はなかった。
それから半世紀、命あって、若き日と同じように、十一月の日本海の砂丘の上に横たわって、長く尾をひいて疾走する星を見る。
併し、心打たれるのは、その孤独な所行ではなく、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する星というものの終焉のみごとさ、
そのおどろくべき清潔さであった。」
・その先、用水は北上し、彦三地内を通過し小橋下流の岩根町東部児童公園で浅野川に注いでいる。