土塀の残る街、金沢(3)
土塀の残る街、金沢
慶長5年(1600年)、関ケ原の合戦が開かれた。二代前田利長は徳川方につき目立った戦功もなかったにもかかわらず加増され120万石の大大名となっていた。利長は慶長10年(1605年)には弟利常に領国を譲り高岡に隠居していた。慶長15年(1610年)家康の命により名古屋城の造営に出かけた利常は工事に携わる過程のなかで、内堀、外堀の必要性を感じていた。利常18歳のころで、篠原出羽と協議した後に外堀、内堀を穿つことを決断する。
東外惣構堀は兼六園の東南端の八坂から辰巳用水を取り入れ、八坂を下って源太郎川に合流し、旧材木町の西を通過、北上して浅野川大橋のすぐ上流で浅野川に注ぐ長さは二キロ内外か。下記写真の左下に流れているのが源太郎川である。
・前田家重臣成瀬家の邸地のあったところで、成瀬の小城といわれていた通り高石垣の上に建築されていたであろう長屋門、屋敷は
他を圧するものがあり往時の隆盛がしのばれる。石垣に雑草がまとわりつき左奥がわかりにくいが高石垣が源太郎川沿いにそそり立っている。
しかし、近所の人がこのことを誰も知らないのには参った。
・右側から石垣を写したもので石垣が土塀の役割を果たしていたものと思われる。
・これが源太郎川の流れで金沢大学医学部付近を源流として木曾坂沿いにくだり、途中で東外惣構堀として利用され小将町、兼六元町から
横山町、材木町と流れ浅野川へと注ぐ。
・菅原道真公を祭る椿原天満宮が近くにある。
・これが八坂である。塀と柵の間にある流れが東外惣構堀に注ぐ流れである。
・前田家家老の奥村家の屋敷地に繋がる寺院、松山寺、鶴林寺などの石垣で有事の際の出丸の役割を果たしたものと思われる。
・出羽町に残る藩士邸の土塀。奥村家の家臣か。
・金沢市小将町界隈。
・金沢市広坂歌劇座の付近。
・金沢歌劇座の横の通にある土塀。ある程度は今風に改造されている。
・里見町近辺に残る藩士屋敷跡。片町の大通りから少し入ったところにひっそりと建っている。昭和40年頃はこのあたりは土塀が連なる街であった。
多くの土塀のある家々が開発と革新への決断によって破壊されていった。この家の人達は伝統を守るという信念があったとは思えない。
むしろ開発という冒険が自滅に繋がるかもしれないという思いのなかで時間が経過し、結果的に由緒ある佇まいが残ったと考えたほうがよさそうである。
江戸時代、大名の家臣には、領地を与えられた知行取があったがこれは全体の一部。普通は、1日米5合を1人扶持として5人扶持とか3人扶持とかを与えられた扶持米取、1年に米3俵など定額を受け取った切米取があった。藩士は知行取のほかに扶持米取もあり、足軽・中間は扶持米取と切米取であった。
足軽でも一戸建ての家が与えられた。
・藩士屋敷跡が並ぶ新竪町、水溜町周辺。
・このあたりは池田町界隈である。
「池田町歩みをとめと逢わず雪ふるなり
そのかみの武家屋敷か
門のべに媼しはぶき
円き肩傘してゆき交ふ」
津村信夫
・東本願寺別院の土塀。
・野町近辺に残る数少ない藩政時代の佇まい。
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