土塀の残る街、金沢(2)
土塀の残る街、金沢
現在金沢市内に残っている武家屋敷跡で旧奥村家以上の屋敷跡はどこにもない。長町に残っているのは中級の武家屋敷跡で全国各地で散見される。
加賀百万石らしい武家屋敷跡を残すとすればここよりほかにはないと思うがいかがだろうか。この奥村家屋敷跡に隣接して北陸学院高校があるがその
高校の建物に隣接して、武家屋敷塀が二棟ほど残っているが早く手を打たないとなくなるおそれがあるかもしれない。
・この堂々とした長い一際他を圧する塀は加賀藩家老奥村家の土塀である。奥村家の始祖は奥村永福で末森城の合戦で城を死守したことで知られている。
(NHK大河ドラマ「利家とまつ」では中条きよしが演じていた)宗家と支家がある。それぞれ1万3千石と1万2千石を領した。内部の敷地を利用しているのは陸軍病院、国立病院を経て現在は金沢医療センターとなっている。
兼六園の南東部に位置し、道路を隔てた所はもう兼六園となる。前を流れているのは辰巳用水である。
・これだけの土塀に囲まれた武家屋敷は全国でも他に例をみないだろう。会津若松に幕末の家老・西郷頼母の屋敷が復元されているが比較するのもおかしいが、この巨大な屋敷は大名クラスのものとしか考えられない。
金沢医療センターには申し訳ないが、金沢大学工学部が移転し、跡に広大な敷地が手付かずのまま残っているのだからそちらへ移転することも考えてみるのも一法ではないだろうか。駐車場も狭く前面道路まで渋滞して危ないかぎりである。工学部はアクセスが悪いという意見もあるが、外回り環状線からのアクセスを整備すれが能登方面からの利便性も高まるがいかがだろうか。
・これは旧奥村家の屋敷跡で崖の際まで続いている。左に見える坂は八坂である。八坂を下って行って屋敷跡を見上げると、それはもう城そのものである。
加賀藩とくに金沢の街割りの特徴は藩中に藩があるような構造になっていることである。八家の家老屋敷のまわりにはその家老につかえる陪臣の家来達が
それぞれ屋敷を構え小さな城下町を形成していた。この奥村家の屋敷の周辺もその例外ではなかった。
・ 寺島蔵人邸跡である。人持組といわれる藩主のお目見えできる身分であったのだろう。
寺島蔵人(くらんど)(1777〜1837)は、禄高450石の中級武士として加賀藩に仕え、改作奉行、大坂借財仕法主付など主に農政、財政方面の実務を歴任した。12代藩主前田斉広(なりなが)に重用された。足軽でも50坪の庭付き一戸建てを与えられたいうのだから、450石は大身の藩士ということができよう。
さすがに、堂々たる構えの土塀であり、尾張町あたりで残っているのはここだけか。
・豪姫住居遺址は大手町の金沢城黒門前にある。
豪姫は1574年(天正2),加賀藩祖・前田利家とお松の方との四女として誕生したが,豊臣秀吉の養女となった。後に岡山城主・宇喜多秀家に嫁ぎ,備前の方と称される。金沢に帰った豪姫は三代藩主利常より粧田四千五百石を与えられ,このあたりで居住したと文献は伝えている。
1634年(寛永11)5月23日,豪姫はこの地で60年の生涯を閉じた。明治になってかからは金沢地方検察庁の検事正官舎として使用された。
・兼六園の近くの材木町に残っている加賀藩定番馬廻組、山森氏の藩士宅で道路に沿って土塀が巡らされ老木も多い。
妻入り造りで堂々とした白壁がどっしりとした構えをみせている。
これらの土塀、庭木などは武家屋敷の原風景を今に残している。
・ここは尾張町の裏通りであり、かっての新町あたりで残っている知行二百石の新番組御歩小頭の屋敷跡があり、道路に沿って迂回してゆくと長屋門がある。
・金沢の北東部を流れる浅野川。泉鏡花、徳田秋声を育てたことで知られる母なる川、別名を女川とも称せられる。この川にはダムがないので、かってはよく氾濫したことでも知られる。旧市内から浅野川大橋を渡ると卯辰山山麓に行き着く。ひがし茶屋街を目印に山麓を散策すると観光地化していない寺院群を尋ねることができる。ざっと数えて約45寺ある。これほどのお寺が一箇所に集中的に集められたのは三壷記や老翁雑記などの古書によると元和2年(1616年)、三代利常が金沢市内の町作りのため道路の大幅改造を行った際に各所に散らばる寺を卯辰山山麓と寺町に集めたことに由来する。
いずれも川の外側部分に集められたのは戦略上の理由からだろう。
この浅野川は泉鏡花の「滝の白糸」(原作は義血侠血)で知られている川である。
「夜は既に11時に近きぬ。蹟は凄涼として一箇の人影を見ず、天高く、露気冷に、月のみぞ独澄めりける・・・・河は長く流れて、向山の松風静に渡る処、天神橋の欄干に靠れて、うとうとと交睫む漢子あり。」
文中にある天神橋は小さく見えるアーチ型の橋のことであり(当時は木造)、向山は左手に見える山の事をさしている。漢子は法学を志す若き御者、村越欣也のことである。白糸は知り合った欣也の学資を出してやることになるが、後に欣也への送金の金ほしさに兼六園で殺人を犯す。何の因果か、後に裁判に検事として出廷した欣也は、恩人に死刑を求刑した後で自決する。川の右手の並木町には「滝の白糸」の碑も建っている。
・来教寺の土塀である。
・東山交差点から山へ向かって歩いてくると、この場所へ辿りつく。
・金剛閣と見えるのは日蓮宗の全性寺である。手前の土塀は常福寺の土塀である。
・早朝は静かな雰囲気のなかで散歩を楽しめる。特に、妙正寺、常福寺、全性寺周辺の土塀が藩政時代の面影を残しており城下町の雰囲気を味わえる。
・写真上の真成寺は前田家以前の小松城主であった丹羽長重が尊宗していた鬼子母神を安置。寺社所有の産育信仰資料は重要有形文化財に指定されている。鬼子母は夜叉の娘である。千人の子を産んだが、他人の子を奪って食べたので仏は鬼子母の最愛の子を隠し、子を持つ親の心を教え諭した。
それ以来、安産、育児の守護神となっている。
・山麓の寺院群からは町並みを見渡すことができ、、山裾を迂回するように金沢城に向かって北国街道が繋がっている。
この四十五寺にものぼる寺院に武装した部隊を集結させ、ここからは敵の将兵が進むのを監視もできるし、一気に山上から敵の陣備えの横腹を突き破ることも可能である。この東山地区へ寺院を集結させたのはやはり戦略上の理由からだろう。金沢城の出城といえるかもしれない。
・さらに妙国寺の境内を通り、妙圓寺を経て、落ち着いた雰囲気の心蓮社、光覚寺へと繋がっていく。この近くには茶道裏千家の千家の千仙叟宗室、大樋焼の初代長左衛門の墓がある月心寺、加賀友禅の元祖宮崎友禅斎の墓と句碑がある龍国寺、立花北枝の墓がある心蓮社などが立ち並んでいる。
・この卯辰山の山麓の街では民家の土塀は殆どない、大概は寺社の土塀が連なっている。
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