土塀の残る街、金沢(1)
土塀の残る街、金沢
金沢の魅力は犀川、浅野川、伏見川などの河川や町中を走る用水群が生活の中で利用されていることだろう。
この犀川と浅野川に抱かれるように二つの台地、寺町と小立野が市街地を形成して数多くの坂道を現出している。
坂道は近道だから車社会の今日でも地域の人々に根強く利用されている。
ただ、土塀は維持費がかさみ減少傾向にある。
近年、長町武家屋敷に観光客が集中している関係もあり、本多町や東山、その他の地域の土塀も少なくなってきた。
これらは金沢の街の魅力を形作る上で欠かないものなので、何とかして今の内に手を打って残す道を模索できないか、考える必要があるのではないか。
現在のように、これだけアメリカナイズされ合理性や利益が優先されると、本来日本にあった非合理性と無駄が時代の流れにそぐわなくなってきたように思う。
土塀の所有者の当人たちはステイタスと考えていても、それほど評価されない時代になってきたといえるだろう。
そのことが土塀の破壊につながり、その多くが代わりに駐車場となってしまったのではないだろうか。
こだわり万歳!人が何と言おうと不便を残すのも美学といえるのではないか。
かって藩政時代、土塀は自らと家族を外的から守る重要な砦であった。
森鴎外の「阿部一族」を読むとそのことがよく理解できる。
土塀を邪魔するように電柱や道路標識が多いのには参った、何とかもう少し美的感覚を生かして街づくりができなものかと考えてしまう。
・金沢の中央部を流れている犀川である。
桜橋から大橋を眺めた風景である。
多くの詩にも読まれた金沢を代表する眺めといえるだろう。
犀川は犀星の川ともいえる、犀星という筆名は犀川の西に住んでいたところから「西」を「星」に変えてつけたといわれる。
「美しき川は流れたり
そのほとりに我は住みぬ
春は春、なつはなつの
花つける堤に座りて
こまやけき本のなさけと愛を知りぬ
いまもその川のながれ
美しき微風ととも
蒼き波たたへたり」
(「犀川」「叙情小曲集」)
若き日の犀星はこの川べりを好んで歩いた。
・桜の季節になると両岸のソメイヨシノも満開になり、雪国金沢も一気に華やいでくる。
五木寛之の作詞した「金沢望郷歌」に次のような一節がある。作曲は弦哲也、歌っているのは松原健之である。
「桜橋から 大橋みれば
流れる雲よ 空の青さよ
犀星の詩を うつす犀川
この街に生まれ この街に生きる
わがふるさとは金沢 夢を抱く街」
この上の写真は桜橋から大橋を眺めた風景である。遠くに小さく見えるのが大橋である。
・文久3年(1863年)加賀藩13代藩主前田斉泰が生母真竜院の隠居所として兼六園の南隅に建てたものである。
金沢城からみて巽(南東)に位置するところから「成巽閣(せいそんかく)」と呼ばれた。
庭である飛鶴庭には辰巳用水も引き込まれており加賀藩の財力を見せ付けられる。この土塀は城の一部を形成する海鼠塀(ナマコベイ)といえよう。
・これらは人持組の侍屋敷跡か、上級の身分に相当し、68家あった。
人持七手といわれ七組で組織されていた。
石高は最低1千石から最高1万4千石の家があり、1千石以上でも人持に加わらないものもいたようである。
土塀の外には大野庄用水が流れ、用水は一種の掘割の役目も果たしていたようである。
・この用水の流れを自宅に引き入れて庭園に利用している家もあるが、今すぐにやろうと考えてもできるのかどうか。
・長屋門
加賀藩直参の家臣である旧天野家の長屋門。
江戸時代の武家屋敷にみられる門形式の一つで長屋と門が結合したものといえる。
門の構造は桟梁を受ける冠木の二本の親柱、中に両国扉があり、左右にはくぐり戸があり覗き窓もある。
金沢でも数少なくなってきた長屋門の土塀である。
・平士達の屋敷も混じっていたようであるが、中心を成しているのは人持組の屋敷跡か。
藩によっては「給人」とも称される中級の身分に相当し、加賀藩では80石から2千4百石の、約1400家あった。
御馬廻・定番御馬廻・組外(くみはずれ)・小将の組があり、各組には組頭と番頭がいた。
御馬廻組・・・150石以上の者たちで、12組編成。
定番御馬廻組・・・150石以下が所属、8組編成。
組外・・・決まった組に属さない者たちで、必要に応じて、御馬廻・定番御馬廻組に加わる。
小姓組・・・殿様の側近くに仕え、雑用を担当する。
これらの組織は一旦定まったら親子代々と受けつがれていくのだから、それ以外の人達にしてみればたまったものではない。
・金沢の土塀の中は市民が生活しているので観光客はこの道筋を歩くだけである。
中を覗き見することはできない、したところで侍がいるわけではないし、日本全国どこにでもある暮らしがあるだけである。
・このあたりは長町武家屋敷群といって、繁華街の香林坊に近く日本銀行金沢支店と東急ホテルの間の道を真っ直ぐ30メートルほど行って、 三叉路を右折ししばらく用水沿いに歩いてゆくと左側の小路に武家屋敷をかいまみることができるので、それとなく気がつく訪ねやすい観光スポットである。
・以前に四国の松山へ旅行したことがある。
松山城を訪ねると坊ちゃんとマドンナがいて気さくに写真に一緒におさまってくれる。
そんな企画がこの武家屋敷やひがしの茶屋街、にし茶屋街にあってもいいのではないかと思う。
着物姿の女性や芸妓が同伴で写真におさまってくれれば一層の人気がたかまるのではないだろうか。
・武家屋敷前の小路は大概は鉤型になって直角に曲がっている。
この小路を散策してみれば金沢が小京都などといわれるのは間違いだということに気がつく。
犀星晩年の「告ぐるうた」に土塀の小節がでてくる、
「突然、ばっさりと土塀の表通りから白い群落の音がして、眼の前の土の上に横たわった物があつた。
肩をすぼめ、居竦められた気合で見ると一かたまりの花束なのだ。
腰をかがめて見分けると大輪の菊をたばね、その白磁めいた冴えた明かりは辺りをつんざいて眼を射った。」
正木年彦が思いを寄せる女性、三木のりえの家に花束を投げ入れるシーンである。
・本多町に残っている土塀の一つである。塀の高さが低いので、藩政時代のものでないかもしれない。
・寺町を一歩入るとそこも寺の街である。
土塀が修復されて残っている。承証寺の土塀である。
・ここは六斗の広見といって広場になっている。
藩政時代からだから、火除け地として設けられたものではないのか。土塀は国泰寺の土塀である。
・寺町にある本性寺の土塀であるが、これも今風に修復されていて余り風情はない。しかし、塀の高さが藩政時代のままだとすればこの寺院群は
金沢城防備の前線基地で戦時には多くの武士の軍団支部になったであろうことは想像に難くない。
・寺町にある高岸寺、長久寺と寺院群の土塀が続いている。
お寺に土塀があるのは全国どこに行ってもあるので特に珍しいわけではない。
・土塀を突き破って道路にまではみ出てているのは桜の老木である。松月寺の大桜といって名所である。
・小立野に残っている土塀は如来寺のコンクリート塀で味もそっけもない。こうなると何の目的のための塀なのか理解にさえ苦しむ。
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