金沢の用水(3)大野庄用水
大野庄用水
略して大野用水といわれるこの用水は、天正年間(1573年~1591年)金沢の町がようやく形成されたころに作られたといわれる最も古い用水である。利家、利長の時代には材木は主として犀川を船で運ぶか、縄で縛り馬に引かせて運ぶか二つの方法があった。犀川を遡った船、筏は犀川大橋の袂にあった荷揚げ場から陸揚げされた。一方、犀川河口の金石(当時は宮腰)といわれた船着場から降ろされた材木は名前にも残っている木曳川を馬に引かせて遡り、城下に運ばれた。開削したのは前田利長の家臣の富永佐太郎だというが、多分この人が図面をひいたのだろう。もともとはこの用水は城下の町造りに必要な資材を運ぶのに作られた用水でその他の使い道は後になって考えられた用水の用途だろう。金沢市の犀川、桜橋上流を取水口とし、片町の歓楽街を通りぬけ、長町武家屋敷跡に沿って街中を流れ三社ドンドに至る。この金沢郵便局の本局横にあるドンドはこの用水の量を調節するのに水門を上下できるようになっているが、ここを通りすぎた流れはJR北陸本線を越えたところで鞍月用水の分流と合流する。さらに、この用水は一つは木曳川となり、もう一つは樋俣用水となって分かれる。本流の木曳川は国道八号線をくぐり犀川の河口金石に向かってゆっくりと流れてゆく。全長10キロ、川幅平均6メートル内外で、城下の消雪、防火、排水、農業用水として利用された。農業用水としては金沢西部の1400石の農地に利用された。
・藩政時代の金沢の古地図である。大野庄用水の取水口は犀川大橋(左上赤い橋)の下流にあることが明確に確認できる。
・上の古地図の一番左手に流れているのが大野庄用水である。
・写真は上流から下流にかけて順番に並べてある。
・大野用水の取水口である。犀川桜橋の上流に堰を造り、水を溜めそこから取水している。
・左手の土手に取水口がある。藩政時代は大橋の下手から取水していたが、水位の関係でここから取り入れるようになった。
・桜橋の上流である。この右手に取水口がある。
・大野用水は街中を走らずに、最初を犀川の流れに沿って数段高い河川敷を下流の、藩政時代の取水口に向かって一気に走ってゆく。遠くに見えるのは桜橋である。島田清次郎の小説「地上」が映画化されたときあの桜橋の上で主演の川口浩と野添ひとみが出会うシーンがある。今では二人とも故人である。ガン克服のため、講演をしておられた野添さんの姿が、今でも目に焼きついて離れない。
・これが大野庄用水の街中の出発点である。片町歓楽街の近くにある。片町の店の名前や女の子のことは知っていてもここを知っている人は少ないし、知ったところで大したことはない。
・この中央通り沿いにある真言宗の古刹は鬼川聖天と呼ばれる真言宗養智院である。横に設置されている石碑によると大野用水は鬼川または御荷川と呼ばれ用水を開墾した富永勘解由左衛門は檀家総代で加賀藩の宗教政策で城下には真宗寺院を置き他の宗派は卯辰山、寺町、小立野に集められたのに唯一残ったのは大野用水を祭る寺院だからであるというような事が記されている。
・片町の歓楽街を通りぬけ、中央通りを跨いで流れは武家屋敷群に沿って走ってゆく。大野用水の流れを自宅に引き入れている家もあるが、これも権利付きで売買されたのだろうか。用水はさらに北上する。
・近年、用水沿いに歩道を作り散策できるようになった。以前は水が流れていなく空のことがよくあった。
前田土佐守資料館、老舗記念館、足軽屋敷など見所が増えてきたようだ。
・この部分の写真はよく観光パンフレットに載っている。
・武家屋敷沿いを抜けた用水は一路、三社ドンドへ向かう。
・武家屋敷沿いに流れてきた用水は、芳斎町の民家やマンションの横を通って三社に至る。
・これが三社ドンドである。三社のドンドを流れた用水は古道の旧道でJR北陸線を越え中橋からの鞍月用水と合流する。三社のドンドがこれほど金沢の歴史上、有名な所とは露知らず、知らない者のなさけか、昔は「さんじゃのどんどのまだ先か・・・・・」などと聞いた記憶がある。
・これが鞍月用水と大野用水の合流地点である。ここで用水は更に分流し北側は樋俣用水、南側は三社用水となり、さらに木曳川になるために北西部へと向かう。
・古道荷揚場である。かっては古道木揚場、三社木揚場と呼ばれ宮腰港から木曳川を利用して運ばれた材木、資材などは一旦ここで降ろしたほうが便利な場合は陸揚げされたようである。このあたりは藩政時代は木曳川の川人足の家々が立ち並んでいたという。
・このあたりで大野用水は幾筋にこ分かれてゆく。
・大野庄用水は古道のはずれで木曳川となる。
・今までの趣と異なり、誰の目にもいきなり川の様相を呈してくる。
・土手の堤は余り整備されていないが、増水しても氾濫のおそれはないものと思われる。
・大野庄用水は後に農業用水として利用された。これらの分水門は大野庄用水の下流である、木曳川には数多くある。遠くに見えるのは新県庁舎である。
・田園地帯の農作物や田地を潤して、流れは北西部を目指す。
・田園地帯を一路、犀川に向かって流れてゆく。
・金石の街中を通りすぎた木曳川は写真の下部で犀川に合流する。
室生犀星は金沢裁判所の給仕を経て、明治42年金石登記所の吏員となってこの地に移ってくる。この街のはずれにある宗源寺という尼寺の二階に下宿した。
「尼寺は海岸の町から離れた一軒家で、淋しい桐の四、五本と桜と榛とに囲まれて建ってゐた。桜は若かったが綺麗に咲きかかって、お花畑に豌豆の蔓がかなり伸び上り、菜はうしろの畑に一杯の黄ろい咽ぶような濃い花を誇っていた」(海の散文詩)
このほかにも金石での体験をもとにした「海の僧院」「かもめ」「海浜独唱」「砂丘の上」「くらげ」などの作品がある。
・木曳川は最後は犀川河口に辿り着く。この犀川の行く先はまもなく金石港になり、日本海へと繋がってゆく。
上の写真の右手に橋があるが、ここから材木を引いて城下の街中へ運び込んだことになる。
この金石の港は藩政時代の英傑・銭屋五兵衛の生誕の地でもある。この港から五兵衛は北前船や南蛮貿易船を出航させた。この海沿いの道をしばらく走ると「銭屋五兵衛記念館」に辿り着くことができる。
「子供の時から、五兵衛は困ったことにぶつかると、この海岸へ出て、遠く青海原のかなたを眺めるのが、癖だった。只、茫漠と無心に海上はるか目を遣っているうちに、ふといい智恵がうかび上がってくる。
「よし!」
彼は力強く、自分に叫んで砂を蹴り立てる。彼の智恵と力は、この底知れぬ海から、吸い上げて自分のものにすることが可能だと信じた。」
(船橋聖一「海の百万石」)
・木曳川は最後の河口で右に分流し、金石のバス停の横を通りすぎ大野川に向かってゆっくりと流れてゆく。
・木曳川から分かれた用水は要川と呼ばれ、金石往還のバス停の横を通りすぎ大野に向かってゆっくりと流れて行く。今のバス停のある所は、かって金石まで郊外電車があったころはその電車の終着駅でもあった。
・大野に入った要川はようこそ大野へという看板に歓迎され、金沢港漁協の横を通過し、ついには大野川に到達しその役目を終える。この大野川はこの先すぐに日本海へと続いて行く。
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