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中屋彦十郎薬舗による「尾山のくすり大将」第38号 2002年12月22日
加賀藩の秘薬(四)
加賀藩の秘薬(四)
我が国に売薬がひろめられたのは足利時代ころといわれています。
それ以後、戦国時代から江戸時代には諸国で盛んに売薬が製造されるようになりました。
前田利家が金沢入城前にも疫病が流行し、多くの兵士や人々が病没しました。利家入城後もよこね、疱瘡などの流行病、癪などの慢性病が蔓延した。
いかにして病を得ず生活できるかは重大な課題であったわけです。眼病、麻疹、マラリアなどが流行し、ことに疱瘡にかかった人は悲惨を極めたようです。
歴代の藩主は表向きの政治、経済の運営、治安の維持の他に流行り病や慢性病、日常の病気 に対応しなければならなかったのです。
あの五代藩主前田綱紀公でさえ、晩年は眼病にかかり江戸への参勤交代もできなかったくらいです。
種痘がなかった時代ですから、寛文年間に疱瘡が大流行したときは日常の政務や行政事務に差し支えるほどだったというのです。
ですから、藩主一族の独占物であった薬も公開し、治療の用に供したのですが、如何せん抗生物質や副腎皮質ホルモン、各種の抗菌剤のない時代ですから、できることは免疫力をたかめるように日頃から薬を飲み体を鍛えることが一番の対応策だったのです。
綱紀公が亡くなった享保9年(1724年)から文化3年(1806年)に至る82年間は、藩政の沈滞期で、天災も相次ぎ、庶民は長期間の飢饉と悪疫の流行に悩まされ、藩政期としてはもっとも暗い時代でした。
また、綱紀公の積極財政で、財政の破綻も起こり、享保16年には藩は幕府から15万両の借金をせざるをえないほどでした。当時加賀藩では「痘瘡、麻疹の流行には牛糞を用いる事」という布告をだしています。牛糞が痘瘡、麻疹に有効であったかどうか、極めて疑問ですが、全く効果がないかどうか誰にもわからない。
加賀藩に、1864年種痘法が導入されるまでどういうふうに 対処していたのか、多分隔離と差別が横行していたであろうことは想像に難くない。
天然痘は人類にとって恐怖の流行病でこの病気の流行で殆ど町がなくなるほどだったのです。疱瘡の予防は英医ゼンナーの牛痘接種法(1796年、寛政8年)により予防が可能となったが我が国に伝えられるまでには68年間の時間を要したのです。
鎖国政策と情報の遮断が多くの不幸をもたらしたのです。正徳5年(1715年)加賀藩で発行された「六用集」には当時金沢で売られていた有名売薬が網羅されています。代表的な販売店として31軒の店が紹介されています。
その中で「丸、散、丹の合薬は多くありすぎて記すに及ばず、各薬種屋に伝えられている名方の家伝薬のみを記す事にする。」と述べられています。
代表的なものを紹介してみます。
(イ)、たちばなや
一.長屋 毒消し丸
二.粟田 白蛇散
三.庄田 万金丹
四.小林 黒薬
五.三輪 振薬
(ロ)、宮竹屋
一.紫雪
二.耆婆万病円
三.烏犀円
(ハ)、千代屋
三瘡膏薬
(二)、中屋
一、耆婆万病円
二、紫雪
三.烏犀円
四.息命丹
五.蘇香円
六.混元丹
七.金徳丹
八.豊心丹
九.清心丹
十.玉膏丹
十一.牛黄円
(ホ)、能登や
一.衆妙丸
(へ)、喜多村屋
一.庄田万金丹
二、痢病薬
三、有明
(ト)、福久屋
一.蘇香円
二.烏犀円
三.耆婆万病円
四.紫雪
五.至宝丹
六.山田黒薬
このほかに、24軒の店と35の薬が収載されています。
日常の生活を営むうえでのくすりは揃っていたように思いますが、流行り病にたいしては無力でした。
罹れば10人中8,9人は死ぬというのが当時では当たり前だったのです。
ペニシリンが我が国に輸入されたのが昭和20年代ですから、それまで長い長い年月がかかったのでした。
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