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中屋彦十郎薬舗による「尾山のくすり大将」第26号 2002年9月30日
加賀藩の秘薬第弐話
加賀藩の秘薬第弐話
中国では今から3,000年前神農氏が現れ、1日に百草をなめて効果を体験し、下痢を繰り返し薬をつくったと伝えられています。
その後、紀元500年頃、陶弘景は神農の薬をあつめて「神農本草経集注」を著しました。その後、中国の李時珍は1590年「本草綱目」 52巻を完成させました。
この本草綱目は日本の薬学の原典となったのです。
加賀藩ではこの本草綱目の研究はされていましたが、特に五代綱紀公は歴代の藩主のなかでもとりわけ熱心で、本草学者を加賀藩に招き研究させるとともに、本草に関する書物を書かせました。
一方、全国に薬の処方を探索させるとともに、蒐集し、調査、研究を行い、場合によっては薬草の栽培を行い、治療薬の試験製造を行ったりしました。
招かれた学者の一人稲生若水は加賀の本草学の基礎を築いたと言われています。
彼は藩内の和薬の探索はもちろん、数多くの秘薬、薬方を全国から集め何かいい薬はないかと研究を重ねたのです。
綱紀公はまた、前田家に秘蔵し門外不出だった薬を藩内の薬舗である 福久屋、宮竹屋、中屋に命じ、製造させたのです。
それが「紫雪」「烏犀円」「耆婆万病円」なのです。
製造は厳密をきわめ、藩医堀部養叔に監督させ作らせたと伝えられています。
その当時、薬舗では黄連、黄柏、熊胆などを取り扱うかたわら諸国の売薬も取り扱い、それぞれ各店では自慢の自家製剤を持ち競い合って商いをしていたといわれています。
当時、藩内には200軒位の薬舗があり一軒あたり3〜4種類の薬を作っていたとしても600〜800種の薬があることになり、その他、諸国の売薬、薬種を合わせると一軒あたり扱う薬の数は2000〜3000アイテムにも達しただろうと推測されます。
又、綱紀公は稲生若水に命じ、本草学書である「庶物類纂」1000巻を編集させたのです。
そのほか「百工比照」は百般の工芸の蒐集も行われているのです。
加越能三州の主である綱紀公は藩主であると同時にすぐれた科学者でもあったようです。
1724年82歳で公は没するのですが、公が亡くなってから明らかになったのですが、一挙に藩財政が困窮してきたといわれるほどです。
この時期、元禄時代をはさんでの数十年間は江戸時代でも最も豊かな時代だったのかもしれません。
百万石の財を傾けて行われた数々の文化的、科学的な事績は人々をして「加賀は天下の書府」と言わしめたほどです。
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